秋の夜長を楽しむ。

やっと今日届きました。
いつ頼んだのか?覚えていない程、月日が経ったので、今日届いたのはとても嬉しいです。
村上開新堂

コーヒーと一緒に楽しみたいと思います。

届いたと言うと、もう一つ。
奈良で有名なお菓子(微笑)も届きました。

こちらは、日本茶と一緒にいただきます。

美しいカタチを得る理由。

美しいカタチを得る事は、そんなに難しく無い時代になった。

既製品のキッチンやお風呂のデザインを、世界的に有名なプロダクトデザイナーが手掛けていたり、GKデザイングループが手掛けていたりする。

だから、そんじょそこらの輩が小手先で線を引いたところで(デザインしたところで)足元にも及ばないのは目に見えている。

こんな状況だから、既製品をそのまま使用しても、ある程度洗練された形状にまとまるのは当然で、美しいカタチを得る事は、容易になっている。

実は既製品の美しさもさる事ながら、もっと、美しいカタチを得る事を容易にしている理由がある。

それはその形状を得る対価がハッキリしていないポイントにある。
ニーズでは無く、ウォンツのまま得る事が出来るポイントだ。

もう少し解りやすく説明するとこうなる。

例えば建築物の価値は、5つの軸で形成されている。
5つの軸、つまり「社会性・芸術性・機能性・経済性・生産性」だ。

美しいカタチを例えば芸術性としよう。

2000万円の家を建てる時
社会性の為に使う費用が60万円
芸術性が1600万円
機能性に200万円
経済性に40万円
生産性に100万円
こんな風に可視化した場合。

「もっと機能性に費用を増やしたい」
「もっと経済性は検討したい」などなど意見が出て来る筈。

しかし、可視化出来ていない事が多い中で、費用対効果が不明確なまま、明確な見た目だけを追う。
そう言った実態が美しいカタチを得やすい状況になっているのだと予測する。

知らぬが仏。
しかし、現実とは大抵厳しいものだ。
それでも現実に目を向けて、曇りなき眼で見定められる強い人。
その人しか乗り越えてられない筈が、良い部分だけを見て選択した気になる状況なら、容易く美しいカタチを得るだろう。

そもそも、どんな事でもそうだが、住まいを検討する場合も例外では無く、魅力ばかりを追っては行けない。

住まいは日常を過ごす場。
もしかすると最期まで居る場になるかも知れない。
なのに魅力ばかりを追うと、とんでも無いことに成りかねない。

魅力とは、自分に無い物とも言える。
多くが当たり前の日常に魅力を感じず、中々得る事が出来ない経験出来ないモノに魅力を覚えるのが一般的だと感じる。
つまり、当たり前から遠ざかる程、魅力は高まる。
言い換えると自分から遠ざかる程、魅力を感じる。

刺激に耐えられる間は、魅力は刺激的で良い。
しかし、一旦、刺激が煩わしいモノに変わり始めると、魅力は不一致と言う言葉へ変化する。

当たり前だ!
最初から自分に無いモノを選んでいるのだから。
不一致に決まっている。

それが、魅力ばかりを追ってはいけない理由。
魅力とは不一致にも変化する可能性を秘めているのだ。

住まいは日常を過ごす場
もしかすると最期まで居る場かもしれない。
そんな場が、ある日から不一致に変化してしまったら、これ程不幸な事が他にあるだろうか?

そうならない為にも、魅力ばかりを追うのでは無く、地に足をつけた日常を把握し最適化する必要がある。

むしろ魅力では無く、己を見つめ知る事こそが住まいづくりに不可欠なのだ。

幸い、冒頭に述べた様に、美しいカタチは容易に得る事が可能となっている。

大量生産される既製品が、深澤直人氏のデザインであったりする。
嬉しい限りだ。

美しいカタチを得るのに、躍起になる必要はない。

それより落ち着いて己を知る事の方が、住まいづくりにおいてもとても重要で、費用対効果を知り、己の価値観で住まいを形成してこそ、美しいカタチを得る意味があるのでは無いだろうか?

僕はそう考えている。

大人になってもチュッチュルゥー

最近はあるのか無いのか?
昔はあった。
大人が子供に「勉強しなさい!」と必死に訴える場面。
「大人になれば解る。でも大人になってからでは遅い。」
そんな風に言われる事は度々あった。

当時の大人の訴えが正しいかどうかは置いておいて、年齢を重ねる事で解る事は、確かにある。

先日は大学時代の友人から、教授が僕に期待してくれていたと教えてもらった。
当時はいじめられている位に思っていたが、今となっては「確かに!」と思う事が出来る。

その他には、昔は爪楊枝を使うタイミングを知らなかったが、最近は食事の後、爪楊枝を探している。

その事からも解る様に、今、自分と無関係でも、存在している物は全て意味があって存在している事を知る。

歳を重ねると経験も増え、それに伴って解る事も増える。
忘れる事も増えるけどね!

「年長者の話は聞くもんだ!」って言葉の意味も良く解る。

話を聞いたところで、経験していない事は実感出来ず、理解出来ない事も事実で、、、
だからやっぱり痛い目をして経験を重ね、大人になって行くしか無いのかも知れない。

誰かの言いなりで一旦は難を避けても、それでは何を得て何を失ったのかが自覚出来ず、きっと何処かのタイミングで何のためらいも無く避けれた筈の難に自ら赴く事はあり得る事だと思う。

だから変に逆らう事なく起こる事を受け入れて、星に願いを神に感謝をすれば良いのかも知れない。

とは言え、僕は暮らしのプロフェッショナル。
暮らしに関する経験や知識は、多少なりとも一般の方よりは多く持っている。

一方で、暮らしは十人十色である事も、経験から強く感じている。

僕に出来る事と言えば、僕から観えているお施主様らしさをお住まいというカタチに落とし込んでご提案し、その上で今のお施主様が選択される事のその先を信じて共に歩み続けて。
もし仮に不連続な変化の中で、その時の選択が逆目に出る様な事が発生した場合には、そこから出来る最善策を絞り出し、やはり共に歩み続けようとする事なんだと思う。

もちろん、相手の同意があって実現出来る事で、僕だけの力では何も出来ない事も解っている。

住まいを考えるとは、そういう事を言うのだと思う。

「社会性」と「芸術性」、そして品格。

今日は(仮称)越前町の家のご契約をいただきました。
ご期待に沿えるよう、これからも力を尽くして参ります。

ご期待されている事。
色々あります。
また、ご期待いただく内容や構成、優先順位は、誰一人(一家族)として同じではありません。

今日は「社会性」と「芸術性」のお話をしました。
そのお話をさせていただく中、「品格」を考えさせられました。
きっと、弊社にご期待されているのは、社会に調和した中での品格のある個性の表現ではないか?と思えたからです。

とても難しい高度なご要望だと感じます。
でも、ご期待に沿えるよう、ご協力をいただきながらチャレンジしていきたいと思います。

本日はご契約いただき、ありがとうございました。
末永く弊社をよろしくお願い致します。

大きな栗の木の下で

昨日・今日と2日かけて(仮称)越前町の家の現地調査を行いました。

(仮称)越前町の家の敷地は、色んな意味で素晴らしい敷地です。
色んな意味がありますが、先ず第一に何年もかけてお施主様が自ら作られた敷地だという事です。
土を運び込み敷地を作り、築山など地形を作り、木を植え育てて風景を作って来られました。

素晴らしい最大のポイントのひとつは、描いた夢をコツコツご自身で作って来られたという点です。

他にも色々あるのですが、追々ご紹介させていただくとして、今日は敷地の高低差や植えられた木々の位置などを調べて来ました。

現地の斜向いには、仏性寺というお寺があります。
彼岸花が綺麗に咲いていました。

それに負けじと、現地では、立派なクリが沢山なっていました。

今日の夜からは(仮称)越前町の家の打合せ。
その打合せの時に、おやつにと思って少し拾って来ました。

しかし今日は、晩御飯を食べて来られお腹がいっぱいとの事で、一緒にいただこうと思って持って帰って来たのですが、打合せ中にいただく事なくお家に持って帰って来ました。

栗ご飯にでもしていただこうと思います。
楽しみです!

今日はクリは、お施主様と一緒に食べられませんでしたが、打合せは滞りなく終える事が出来ました。

いよいよ契約書の作成に移ります。