「習ったはずなのに、活かされていないこと」 〜空間の哲学と、家具の意識〜
今日、週末のリビングフェアの報告などに来てくれたパナソニックの方と話をしていて、
ふと盛り上がった話題がありました。
「学校で習ったことって、みんな覚えてないよね」
「でも、確かに習ったはずなんだよね」
たとえば、
建築の基本の「北の眺望・南の日照」もその一つ。
当たり前のように習ったのに、実際の街には、そんな当たり前がほとんど活かされていない住まいが並んでいる。
それって、どういうことなんだろう?
欧米と日本の住まいの捉え方には、そもそも大きな違いがある。
そのことも授業で習った。
たとえば「ベッドルーム(寝室)」という言葉。
この室名の由来は、家具(ベッド)にある。
つまり、欧米の住まいは家具ありきで設計されるということ。
「ベッドが入らないベッドルームなんて、アメリカンジョークだよね!(笑)」
今日の会話の中でも、そんな笑い話が出た。
一方、日本の住まいは、家具に依存しない。
ちゃぶ台を出せば食堂に、布団を敷けば寝室に。
空間を状況に応じて使い分ける、フレキシブルな文化がある。
広告で「リビング8畳」と書いてあっても、
「そのリビングに本当にソファー置ける?」と疑問に思うような間取りもある。
家具が主役なのか、スペースが主役なのか。
この違いは、単なる設計の違いじゃなく、文化的な深層に関わっている。
僕は、日本の住まいのこの“フレキシブルさ”は、
とても哲学的な文化だと思っている。
「諸行無常」──すべてのものは変わりゆく。
そんな価値観が背景にあるからこそ、
空間も固定せず、流動的に捉えようとする。
季節によって模様替えをしたり、
床の間に花を飾ったり、掛け軸を掛け替えたりするのも、
「移ろい」や「もてなし」を大切にする、心の文化だったのかもしれない。
でも、現代の住まいでは、
畳の間も、床の間も、とんと目にすることが少なくなった。
代わりに、家具のある暮らしが日常になっている。
でも、その家具が本当に“美しく置ける設計”になっているか?
ちゃんと意識して住まいを設計している人は、どれだけいるのだろう?
エクリュでは、
「どんな家具を使いたいですか?」と必ずヒアリングする。
家具のサイズ感、配置や余白、動線、光の入り方までを想定してから、設計をスタートする。
暮らしの“道具”としての家具を、暮らしの本質から考える。
これもまた、僕たちが大切にしている「習ったはずのこと」。
忘れているようで、ちゃんと残っている「記憶」や「感覚」。
そのひとつひとつに、もう一度、手を伸ばしてみたい。
そんなことを、ふと思った今日のひとときでした。