単なる入れ物
大切なコトは、目には見えない。
砂漠が綺麗なのは、砂漠のどこかに井戸があるからだよ。
星が綺麗なのは、星に花が咲いているからだよ。もちろん、花は見えないけど。
家でも、星でも、砂漠でも、それを美しくしているのは、目に見えないものなんだね。
いまぼくが見ているのは、単なる入れ物に過ぎない。本当に大切なものは、この中に入っている目に見えない何かなんだ。
星の王子さまのフレーズ。
大切なのはカタチじゃない。
目に映らないトコロにある。
僕と妻は、同じ高校の卒業生。同級生。
同じ卒業アルバムが、我が家に二冊ある。
僕は、高校一年生の時、担任の今村先生に、親が希望している志望校(大学)を伝えた結果、部活をする事を許されなかった。
仕方なく、そうやって部活を許されなかった人たちを集め、野球チームをつくり甲子園に出場する様な強豪チームと軟球で試合を申し込んでは、大阪城公園などで野球をしていた。
しかし、この有意義な活動は、卒業アルバムにも内申書にも載っていない。
それに比べ、妻は卒業アルバムにたくさん登場する。
僕が入りたかったバスケ部に所属し、部活動に励んでいた。
また生徒会などにも参加、その為、たくさんアルバムに登場する。
アルバムや内申書にも載っていないが、載っていない人も同じ様に時間を過ごした。
同じかどうかはわからないけど、同じ量の時間は確かに流れた。
大切なコトは、その同じ量の時間の過ごし方や、その間でどんな事を感じ、考え、行動してきたのか?もしくは行動してこなかったのか?
とにかく目に映らないところにある。
僕は家を建てる仕事をしている。
かれこれ二十年以上この仕事をし、大学で学んでいた時間も加えると四半世紀を超える。
そんな中、想いを家というカタチにしてしまう侘しさの様なモノを感じた時もあった。
カタチにした途端、想いとは遊離すると言うか・・・そもそも想いをカタチに出来切っていないと言うか・・・何か虚しい感情を覚えた時期があった。
しかし今は違う。
想いはカタチにし続けなければ意味がないと思う。
妻は卒業アルバムにたくさん登場する。
偉いと思う。
もちろん大切なコトは、目に映らないところにある。
サン・デグジュペリにいたく共感する。
ただ今は思う。
その目に映らない大切なコトを、目に映ったり耳に届いたりする様、表現しなきゃいけないと。
その表現は、いつも拙くて、いつも大切なコトに足りていない、届いていないと感じるけど、それでも少しずつでも足りていける様、近付ける様、表現に磨きをかけたいと思う。
妻は卒業アルバムにたくさん登場する。
僕の高校生活は知る人ぞ知るモノで、紙などに記載はされていない。