視力が上がると、観られなくなるものがある。——それでも見たいものは?
観たくて鍛えた視力のはずが・・・
映像作品が最後まで観られなくなった。
テレビ番組はもちろん、映画も。
その理由は単純だ。「気になる」から。
登場人物の言動に矛盾があったり、設定に綻びがあったり、場面のディテールが雑だったり。
物語に没頭できない。
それは、僕自身の「視力」が上がったのだと思っている。
(ここで言う視力は、比喩だ。観察眼、感受性、洞察、そういう類のもの。)
子どもの頃から違和感があった。
たとえば「ドラえもん」の映画。
いつもは乱暴者のジャイアンが、急に「めっちゃ良いヤツ」になる。
そんな風にキャラ設定がブレるのがどうにも受け入れられなくて、
一度も映画館でドラえもんを観たことがない。
僕にとって、あれは“どざえもん”に等しかった。
内容が入ってこなかったのだ。

共感できる世界
最近は、それがもっと顕著になっている。
映像作品のほとんどが、最後まで観きれない。
ストーリーの構成や演出が、「え?なんで?」と気になってしまって、
集中できず、没入できない。
これは良いことなんだろうか?
それとも、共感できる世界が減ってしまったという、ちょっと寂しい変化なんだろうか?
Powers of Ten
ある日、ふと思い出した映像がある。
昔観た “EAMES FILMS” というDVDの中の「Powers of Ten(10の冪乗)」。
画面がズームアウトして、メートル→キロ→メガ→ギガ……と宇宙の視点まで広がっていき、
やがて逆に、1/10→1/100→1/1000……と細胞や分子、原子の世界に潜っていく。
その映像で印象的だったのは、「混沌と静寂」が交互に現れること。
スケールが変わるたび、情報量が増えてザワザワするかと思えば、
次の瞬間には静けさに包まれる。
“密”と“疎” “いっぱい”と“すこし” が繰り返される。

僕の「視力が上がる」経験も、それに近いものかもしれない。
見えるものが増えるたび、混乱し、やがて整理され、また混乱し……。
そして、表現の精度が上がれば上がるほど、共感されにくくなる瞬間もある。
視力が高くなるほど、共感できる作品が減る。
つまり、「いっぱい」と「すこし」を、僕も繰り返しているのだ。
それでも諦めたくない
なぜ、こんなことを考えていたのか。
それは、エクリュが感じていること、考えていること、カタチにしていることが、どうすれば多くの人に伝わるのか?を、ずっと考えているから。
共感してもらいたいし、伝えたい。
でも、視力が上がった者としての表現は、時に伝わりにくくなる。
それでも、視力を落とすわけにはいかない。
僕は、観ることを諦めたくない。
伝えることも、諦めたくない。
【次回予告】
「“ビジネス”とは、関係性を育てること。——だから僕たちは原価オープンを選んだ」
エクリュは「原価オープン」の家づくりをしています。
それは、単なる価格の透明性ではありません。
“住まい”と“住む人”が、ちゃんと関係を結ぶための「仕組み」です。
「お金」という一見俗っぽいものを通して、私たちは何を見える化しようとしているのか?
——続編にて、お話しします。
