共感
「お兄さんの仕事は、カタチがあるからいいね!
理解が無くても、感じることで共感を得ることができる」
弟にそう言われて、僕は少し寂しくなった。
最後まで観ることができる映画が減る
僕は、最後まで観ることができない映画が増えた。
その理由は、最後まで理想の暮らしが続かない家が多いことと、とてもよく似ている。
僕は映画を観る時、物語に没入するというより、少し引いた位置から観ている。
監督は、何を、どんな手順で、どこまで誠実に伝えようとしているのか。
興味の軸足は、そこにある。
だから、卑怯な表現が見えると、一気に冷めてしまう。
視聴者を軽く見ていたり、感情を安易に誘導したりする瞬間が見えた時、
僕はテレビのプラグを抜いてしまう。
その横で妻は、「なんで消すの!」と怒る。
僕が「この映画には、誠実さや敬意が無い」と答えると、
また少し、寂しい気持ちになる。
所詮フィクションの結果に過ぎないのに、
妻はその“結末”を知りたくて、
観る側が軽く扱われていることには気付かない。
僕には、共感する価値も資格も無い映画に見えてしまう。
映画と住まいづくりにある共通点
この映画の見方の違いは、住まいづくりにもそのまま当てはまる。
家を建てた人の半数以上(55.4%)が、
かなり頑張らないと「人を招くことができない暮らし」をしているという。

理想を描いて建てたはずの家で、
理想から遠い暮らしを続けている。
この現実は、映画の見方の違いと、とてもよく似ている。
- 分かりやすいものに飛びつく
- あまり考えず、流れに身を任せる
- 時短で「結果」だけを求める
- 「楽しさ」より「楽」を優先する
こうした思考の癖が、
本来得られるはずだった結果を、遠ざけている。
共感は、奇跡だ
「お兄さんの仕事は、カタチがあるからいいね!
理解が無くても、感じることで共感を得ることができる」
カタチがあれば伝わる。
カタチから感じ取れる。
もし本当にそうなら、この世界はどれほど美しいだろう。
でも、僕はそうは思わない。
共感できることは、奇跡だ。
カタチを目の前にしても、共感は起きない。
知識や認識があったとしても、それらは足がかりに過ぎず、
そこから何かを感じ取れるかどうかは、極めて不確かだ。
だからこそ、共感は奇跡なのだと思っている。
建築はカタチがあるから共感を得られる。
そう信じ切っている弟の言葉に、
僕はどうしても、残念さを覚えてしまった。
優しさとは何か
弟は、性根が優しい人間だ。
命の初期設定が、優しさの方向を向いている。
こういう人は、勘違いしやすい。
自分の内側に湧く感情は、ピュアで正しいものだと。
しかし、ピュアであることと、正当であることは別だ。
本来の優しさとは、
消して評価や見返りを求めない、完全な奉仕の心だと思う。
たとえると、未来において「正しかった」と言える結果を残すことだったりする。
気持ちが優しいだけでは、
正当な結果に結びつかないことの方が多い。
想いは、
- ピュアであること
- カタチにすること
この2つが揃っても、
- 伝わる
- 実る
ところまで辿り着くのは、簡単ではない。
弟は、あまりに命がピュアだから、
「カタチにすれば伝わる」と疑っていない。
そして、その無自覚な確信が、
「共感すべきだ」という圧になりやすい。
それはもう、優しさではないのではないか。
そう感じてしまう自分がいる。
強要は、やさしさか?
住まいづくりでも、同じ構図が繰り返されている。
「当社は、気密が確保される吹付断熱を採用しています」
「地震に強く、間取りの自由度がアップするパネル工法がおススメです」
そう言われるまま、選択肢を失っていないだろうか。
分かりやすさに流され、
考えることを手放し、
「楽」を選び続けた結果が、55.4%なのだと思っている。
“支配”から“選択”へ
力ある者にとって、
考える人は、都合が悪い。
だから、
- 考えない
- 流される
- 疑わない
人が増える方がいい。
でも、住まいは一度建てたら終わりじゃない。
暮らしは、ずっと続く。
- 分からないことを分かろうとする
- 流されずに考える
- 自分なりの正当性を持つ
- 「楽」ではなく「楽しさ」を選ぶ
そうやって選択できる人は、
やがて、カタチからも感じ取れる人になる。
想いを言語化できる人になる。
共感という奇跡も、
もしかしたら、夢ではなくなるのかもしれない。
