技術と倫理のバランス──ハラリ氏の警鐘と人類のこれから
技術と倫理のバランス──ハラリ氏の警鐘と人類のこれから
ここ10年程、ユヴァル・ノア・ハラリ氏が語る「人類が進化の果てに“神”のような存在になる」という未来予測について考え続けています。
不死や長寿、さらには生命そのものをつくる能力まで。
テクノロジーの力が劇的に加速する中で、人類が“創造主”に近づいているように見える局面も確かにあります。
技術の加速と、倫理の遅れ

しかしその一方で、僕はこうも感じます。
いくら技術的な「チカラ」が積み重なっても、倫理や心の成熟が追いつかないままでは、まるで凶暴な未成年のように、人類は過ちを繰り返すのではないか──と。
もちろん、失敗や誤謬を通じてしか進化できないこともあるでしょう。
ただ願わくば、人類が「次のステージ」に進める程度の失敗であってほしい。
立ち直れない破局的な過ちではなく、学びとして昇華できる範囲であってほしいのです。
人類は本当に「神」になれるのか?

ハラリ氏の言う「神」とは、単なる宗教的な絶対神とは異なる意味かもしれません。
特に日本的な神観では、「善悪」を超えた無垢な存在──
たとえば自然の神々や、両義的な霊性を持つものも含まれるため、その文脈ならまだ理解できます。

しかし、もし「万能の存在」「完全なる善」としての“神”を目指すのだとしたら、人類には荷が重すぎるのではないでしょうか。
AIと民主主義の崩壊?
AIの発展もまた、両義的な側面を持っています。
便利で創造的な側面がある一方、ハラリ氏が指摘するように「民主主義の崩壊」さえ引き起こす可能性があるのです。
実際、今回の参議院選挙でも、僕は何を信じて投票すればいいのか、迷いました。
フェイク情報の“精度”が高まりすぎていて、どこに真実があるのか分からない。そんな怖さを感じたのです。
技術と共に歩むには、心が必要
とはいえ、スマホを捨てたり、技術を否定して“昔に戻る”だけでは前進とは言えません。
重要なのは、技術の進化に「倫理」が引き離されないこと。
そして、それを政府や科学者だけでなく、私たち一人ひとりが考えることです。
簡単なことではありません。
だからこそ、自分の中に「何が正しいのか?」「どう向き合うべきか?」という軸を持つ必要があるのだと思います。
技術と倫理のバランス──それは、私たちが未来に進むうえで、避けて通れないテーマです。

耳障りの良さより、「難解さ」に向き合う勇気を
「容易」なことには、何か「毒素」や「危険」が潜む。
「現実」や「真実」は、大抵困難なモノ。
技術に倫理が引き離されないためには、
この当然の法則を、当然に理解すべきなのです。
耳障りの良い言葉に、容易になびくな!
理解の困難な言葉に、あえて食いつけ!
さもないと、過去の悲劇が、かたちを変えて繰り返されるだけです。

思考を止めるな。
都合よく切り取られた断片ではなく、全体像を自分の頭で探り当てろ。
見たいものしか見ない者は、見せられたいものだけを見せられる。
操作される自由ほど、危ういものはありません。
だからこそ、
思考の努力を放棄するな。
「分かりにくさ」の中にこそ、未来を決める「真実」は潜んでいるのだから。
大きなことはできませんが、小さなことからコツコツと!
「家は3回建てないと、思い通りにならない」──
そんな言葉を耳にしたことがある人も多いのではないでしょうか。
なぜ、そんなふうに言われるのでしょうか?
私は、それが「約半数の人が、友人を気軽に招けない家で暮らしている」という現実と無関係ではないと感じています。
もちろん、いい加減な気持ちで家を建てる人は、ほとんどいないはずです。
それでも「本当に望んだ暮らし」とはかけ離れた家ができてしまう。
その背景には、技術と倫理のバランス、そして現実や真実と向き合う厳しさがあるのではないでしょうか。

僕たちに、人類全体を導くような「大きなこと」はできません。
でも──
人々の原点とも言える「住まい」から、家族や職場、そして社会へウェルビーイングを影響させていく。
そんな「小さなこと」を、日々積み重ねていくことなら、僕たちにもできるはずです。
だからこそ、ぜひ思い出してほしいのです。
前の章で触れた「耳障りの良い言葉」と「難解な言葉」の話を。
安易な言葉に流されず、難しくても真実に触れようとする姿勢。
それが、より良い未来と住まいの在り方につながっていくと、僕たちは信じています。
どうか、できるだけ多くの方々が「闇」に覆われることなく、
本当の意味でのウェルビーイングを実感できる日常を送れますように──。